国道367号線  −その3−

 大原を通る。三千院はあまりにも有名だし、京都に観光で来た人は、誰もが訪れるところであろう。しかしながら、寂光院も渋い。
 寂光院は、壇の浦の合戦で、幼いわが子、安徳天皇を抱いて海に飛び込んだ建礼門院が、静かに余生を送ったところである。鎌倉幕府ができる直前だから、西暦1190年前後であろう。約800年前のことである。
 寂光院ができたのは、さらに昔にさかのぼる。594年に聖徳太子が建立したもので、約1400年前だ。京都に来ると、こういうお寺がごろごろしている。世界的にみても、特異な都市であると思う。

 その寂光院を、約25年ぶりに訪ねた。古い石段を登って、境内に入る。すると驚いた。本堂がないのである。小さな本堂は、萱葺きで地味であるが、非常に趣味がいいものであった。その本堂があった位置には、緑色に塗られたベニヤ板で囲われており、仏壇のように小さな「仮本堂」が置かれていた。


寂光院の庭園

 寂光院の本堂は、2000年5月9日に、何者かによって放火されたのだそうだ。約1年ほど前のことである。そんなことをするやつがいるのか、と思うと、ぞっととする。その後、寂光院はずっと見学中止となっていたが、2000年11月22日より、やっと再開したのだそうだ。全然、知らなかった。
 で、やはり本堂がないと恰好がつかない。寂光院の美しさは、渋い庭園の美にあったと思う。そして、その中心となるのは、やはり小さな萱葺きの本堂であった。カメラのファインダーで、風景を切りとってみるが、どうしても絵にならない。
 現在、寂光院では、本堂の建て替えを予定している。もとの本堂と全く同じ、というわけにはいかないだろうが、庭園の美と調和した建物であったらいいな、と思う。

 大原を過ぎると、本格的な山道になる。若狭の人々は、こんな山深いところを大きな荷物を担いで歩いたのかと思うと、ちょっと信じられない気がする。山賊にでも襲われたら、ひとたまりもないではないか。
 もちろん簡単には襲われないように、常に集団で行動しただろうし、護衛を雇ったりもしたのだろう。が、いずれにしても、相当、危険な旅であったにちがいない。
 ところで、このあたりも京都市だ。京都市左京区。左京区はなぜかばかでかく、滋賀県との県境から、福井県に近いところまで続いている。


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リンク
寂光院公式サイト
三千院公式サイト
バーチャル三千院
京都大原ドットコム




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