国道311号線   −その4−


 甫母(ほぼ)の集落に入る。
 道幅が、めちゃくちゃ狭い。しかも、海側は防波堤になっていて、ところどころに、船が着く岸壁に、人が出入りするための穴があいている。ということは、そこから人が飛び出してくるかもしれないわけだ。怖くて、とてもではないがスピードを出せない。私は集落を通り過ぎるまで、ずっと時速20キロメートル以下で走った。途中、急なカーブもあり、乗用車ですら、通り抜けるのは難しいだろうと思われるところである。
 早急に、道幅をひろげるべきであると思う。実際、拡幅工事は計画されているようだ。が、ただでさえ、人口の少ない地区である。完成するのが、いつのことになるかは、まったくわからない。

 二木島(にぎしま)に着く。JR紀勢本線では、賀田の次の駅は二木島である。鉄道は、リアス式海岸をトンネルでショートカットしてくるのに対して、国道311号線はぐるっとまわってくるのである。所要時間は、JR紀勢本線だとわずか5分。国道311号線を走ってくると、30分近くかかる。
 ところで、勘のよい読者の方は、昨日とおったのが三木里で、ここが二木島というと、なにか関連があるのではないか、と思われたかもしれない。まさに正しくて、南から順番に、紀伊市木(いちぎ)、二木島、三木里と「キ」という音が付く地名がならんでいる。そして、四、五、六、七がなくて、八鬼山、九鬼という順番になっているのだ。
 キというのは、このあたりの古い言葉で、砦という意味らしい。四、五、六、七がないのは、おそらく昔はあったのだろうけど、現在においては、地名として残っていないのだと思う。

 二木島からは、トンネルを抜ける。遊木(ゆき)という、小さな集落を見下ろす場所を通り過ぎる。小さな入り江+漁港+段々畑という、このあたりの典型的な風景である。遊木は、四木(よき)がなまったのかもしれないな、と思うが、私の勝手な想像であり、根拠はない。


遊木の集落


 さらに国道311号線をすすむ。
 軽トラックに、追い付いてしまった。おとなしく、後ろについて走る。けれど、ペースが違いすぎるので、安全なところで追い越した。すぐに、新鹿(あたしか)の集落のなかに入ってしまった。子供やお年寄りが飛び出してくる怖れがあるから、時速40キロメートルまで、スピードを落とす。すると、その軽トラックに、また追い越されてしまった。

 安全なところではスピードを出してもかまわないけれど、危険なところではスピードを落とす、という、安全運転にとっては、基本中の基本がわかっていない人は、意外と多い。なぜならば、そういうことは教習所では教えないからだ。
 教習所とか警察という組織は、規則を守ることについては、しつこく強要するけれど、どういった行為が危険なのかについては、意外と教えない。だから、クルマやオートバイを運転する人にとっては、安全運転というものを、実際に運転しながら、自分で身につけていくしかない。

 交通事故を起こしたことがない人の運転を見ていると、非常にきびきびして、めりはりがきいている。スピードを出してもかまわないところは、ガンガンいく。誤解を恐れずに言うならば、運転が上手い人は、制限速度をいちいち守ったりはしない。クルマのスムーズな流れを妨げることが、いかに危険な行為であるかを、よく知っているからである。
 けれども、スピードを落とすべきところは、きっちり落とす。郊外や田舎の集落のなか、駐車しているクルマの前後、ブラインドカーブ、登り坂の頂上。そういった、先になにがあるか予測がつかないようなところ、言い換えれば危険なところでは、必ず十分に減速する。
 危険なところがわかるかどうかは、運転技術が優れているとか、運転歴が長いとか、そういったこととは全く関係がない。単純に、その人の想像力の問題である。
 新鹿の集落を過ぎたところで、私は、その軽トラックを、さっさと追い越した。

 おっと、言い忘れるところであった。新鹿は、きれいな砂浜がひろがっており、三木里とともに、このあたりでは代表的な海水浴場がある。三木里もきれいな海水浴場であるが、賀田湾のなかになるので、最近は水が汚れてしまった。新鹿は水がきれいなので、地元の人も、近年は新鹿まで行って泳ぐことが多い。
 夏には、キャンプもできる。とてもいいところである。


新鹿の砂浜

リンク
新鹿海水浴場


 新鹿からは、小さな峠を越える。越えたところが、波田須(はだす)の集落である。
 ここには、徐福(じょふく)が上陸したという伝説が残っている。徐福とは、約2200年前、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて日本にやってきたという伝説の人物である。大船団を組んで航海をしているとき、嵐に遭って、この地に流れ着いたというのだ。その後、徐福はこの地にとどまり、焼き物の製法や製鉄などの技術、あるいは農耕・土木・捕鯨・医薬なども伝えたという。
 波田須は、もとは「秦住」と書き、徐福が住んだ場所とされているのである。

 支配者の伝説は、美化される傾向にある。この地に、なんらかの事情により秦から脱出してきた人物が、黒潮に乗って流れ着いたというのは、おそらく史実だろうと思う。そして、この地を拠点にして、熊野地方一帯を武力により支配したのであろう。
 この秦から来た人物は、その後の日本史に大きな影響を与えたものと思われる。でなければ、熊野のようなど田舎に、古代日本において、政治的なまとまりを持った強大な国家が出来るわけがない。

 波田須には、徐福がまつられているという徐福神社がある。また、神社のなかには「徐福の墓」と書かれた墓碑があるが、本物であるわけがないので、これは無視していいと思う。


徐福神社



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