国道226号線(3)

 開聞町、頴娃町(えいちょう)を通り、知覧町(ちらんちょう)に入る。
 知覧町には、なにか有名なものが、あったような気がする。なんだっけ、と、ずっと考えてみたが思い出せない。オートバイをとめて、地図を見る。そうだった。特攻隊の基地があったのだった。ああそうか、と思った。
 特攻隊の基地には、あまり興味がない。けれども、その近くにある「知覧武家屋敷」は、気になる存在である。行ってみようか、と思ったが、10キロ以上も内陸に入ったところにあり、かなりの寄り道になってしまう。それで、パスすることにした。有名な観光地には行かないで、変わった地名というだけで、鰻に寄り道したりしている。旅行の達人のような人からみると、バカバカしく見えるかもしれない。

 枕崎市にはいると、鰹節の臭いがした。鰹節は、ここ枕崎で製法が確立し、その後、黒潮に逆らって南に帰る下りカツオを追いかけてきた漁師が、高知、三重、静岡に製法を持ちかえり、伝来したらしい。
 私の父は、三重県尾鷲市の出身である。父の生家は、小さな漁村にあった。私は、小さい頃から夏休みになると、父の生家に帰っていた。村を歩くと、ぷーんと鰹節の臭いがしていたものである。そういうわけで、私は鰹節の臭いのする町には、なんとなく親しみを感じてしまう。枕崎のほか、静岡県の焼津や、高知県の久礼(くれ)なども、親しみを感じてしまうところである。私にとっては、なんの縁もゆかりもないところではあるのだが。


枕崎〜野間池

 坊津町(ぼうのつちょう)に向かう。
 坊津は、ふるくからの港であり、遣唐使船の寄港地として有名だ。1635年に、江戸幕府が鎖国政策のため、貿易港を長崎に限った。そのため、坊津は歴史の表舞台からは去った。が、薩摩藩では、唐や琉球との密貿易が行われ、坊津は貿易港としての伝統を失うことなく、繁栄が続いていた。
 あの鑑真が、漂着したのも坊津であった。5度も失敗し、最後には失明しながらも日本をめざしたという鑑真は、いったい、日本に何があると思ったのだろう。
 道路沿いに、歴史民俗資料館がある。なにが展示してあったかは、忘れてしまった。が、資料館の2階から見える海はきれいだった。
 坊津から先は、道幅がせまく、かつ、小さな半島をいくつも横切るので、小さな峠が連続している。いくつか越えると、野間池(のまいけ)に着いた。



野間池にて


 野間池とはいっても、実際には海で、入り口のせまい、小さな入江になっている。水面は鏡のように穏やかで、本当に池のようなところだ。

 漁港にオートバイを止めて、休憩する。しばらくのあいだ、ぼーっと静かな海を見ていた。すると、背後で「さよーならー。」という声が聞こえた。ふりかえると、学校の帰りらしく、赤いランドセルを背負った、小学校2年生か3年生くらいの女の子が、にっこり笑っておじぎをする。周囲を見回したが、私のほかには誰もいない。だから私に挨拶したのだろう。私はちょっと慌てて、「ああ、さようなら。」と、挨拶を返した。
 なおも海を見ていると、また背後から、「さよーならー。」と声をかけられた。今度は、女の子の3人組だ。私は少し落ちついて、「さようなら。」と挨拶を返した。
 学校で、「帰り道に大人に会ったら、必ず挨拶しなさい。」と教わっているのだろう。「知らない大人のひとと、話をしちゃだめよ。」と教えられる都会の子供とは、えらい違いだ。
 でも、こういう育てられ方をした子供たちが、大人になって都会に出て来たら、いろいろと疲れるだろうな、とも思う。

 背後で波の音がする。行って見ると、外海だった。外海と野間池をへだてる陸地で一番狭いところは200メートルくらいしかない。少し風が強く、海は荒れていた。入江のなかの、鏡のような水面とはえらい違いだ。


 
 野間池の地図をみる

頴娃町公式サイトへのリンク
知覧町公式サイトへのリンク
枕崎市公式サイトへのリンク
野間池漁業協同組合ページへのリンク


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