国道56号線  −その1−

 徳島から国道55号線を走って、高知に着いた私は迷っていた。
 じつは、明後日の午後に、仕事の約束がある。だから、本当ならすぐに、東京に帰らなければならないのであった。東京に帰るのに一番はやいのは、多度津に抜けて、瀬戸大橋をわたることである。あるいは、今日午後3時に高知港を出る、東京行きのフェリーに乗れば、明日の夕方には、有明の東京フェリーターミナルに着く。私に残された選択肢は、この2つしかないはずであった。
 しかしながら、私は別の選択肢で迷っていたのである。それは、仕事上の約束をキャンセルして旅を続けるか、あるいはおとなしく東京に帰るか、という選択肢であった。

 まっとうな社会人にとって、正当な理由なく、仕事上の約束を破ることはタブーである。私のように、一人でオートバイに乗って、こんなところまで走りに来るというのは、あまり賢い人間のすることではないかもしれない。が、休暇をとることは労働者の権利であり、それをどう使おうが、本人の自由なのである。だから、私はまだ、まっとうな社会人であると、胸を張って言える。
 しかしながら、私的な理由により、仕事上の約束を破ることは、まっとうな社会人のすることではない。それは極道者のすることである。もう、10年以上、社会人をやっているが、これまでどんな場合においても、私はそのような行為をしたことはなかった。
 まっとうな社会人の範囲で踏み止まるか。それとも、極道者のオートバイ乗りになり下がるか。その境界線上に、いま私はいる。
 しばらく考えて、私はようやく結論を出した。

「要するに、仕事に支障が出なければいいのだろう。」

 明後日に会う約束をしている人に、電話をした。
「申し訳ありませんが、明日の朝までにFAXでレポートをお送りしますので、明後日の打ち合わせは、欠席させていただけないでしょうか。」と。むろん、相手は私が四国に来ており、オートバイで走り回っていることなど、知らない。
 その人は、ちょっと意外そうな感じで、「いいですよ。」と言った。さらに、「どこか具合でも?」と聞き返した。私は、「恐れ入ります。少々、具合がわるくなりまして。」と、あいまいな返事をした。

 よかった。これで旅を続けることができる。ただし、私は極道者の仲間入りである。
 多少の後ろめたさを感じる。少々、うっとうしい気分のまま、私はビジネスホテルをチェックアウトした。旅を続ける代償として、今日の夜は、徹夜でレポートを作成しなければならない。

 1994年8月7日午前10時20分ごろ、はりまや橋の交差点をスタートした。
 しばらくは国道33号線を西にすすむ。土佐電鉄の路面電車とならんで走る。「県庁前」という電停の近くには、県庁、市役所と城がセットである。日本の県庁所在地で、こういったところは、じつにたくさんある。身近なところでは、静岡、名古屋がそうだ。
 高知城は、山内一豊が築いた城で、このあたりのもともとの地名は、河内(こうち)という。それを一豊が、「高く知らしめす」ということで、高知の字をあてた。一豊が入る前の、長宗我部(ちょうそかべ)氏の居城は、もっと山沿いにあったはずだ。調べてみると、初期には南国市にある岡豊(おこう)城が、その本拠地ということであった。ただし、現在の岡豊城跡には、ほとんど何も残っていないようである。

 ちょっと寄り道をして、高知県立追手前高校を見に行った。
 この学校は、1993年5月に放映されたスタジオジブリのアニメ「海がきこえる」のモデルになった高校で、100年以上の伝統を誇る高知県きっての名門高校である。アニメのなかでは、歴史を感じさせる校舎と、立派な時計台が印象的であった。だから、高知を訪ねたら、見に行ってみたいと思っていたのだった。
 夏休みであったから、学校は休みである。けれど、部活でたくさんの生徒が登校して、練習をしていた。オートバイに乗った怪しい男が、女子高生のたくさんいる学校を覗いていると思われるのはイヤだから、学校の外から時計台をちらっと見て、すぐに出発した。

 あのアニメ、ストーリーはありきたりの青春もので、あまり面白くなかったけれど、高知を舞台に設定したところがよかったと思う。ポイントは、東京からの距離感である。静岡だと近すぎる、那覇だと遠すぎる。高知以外の町を舞台にしたのでは、里伽子の感じた閉塞感は、理解できなくなる。
 また、涙を流しても、すぐにカラッと乾いてしまうような南国の明るい雰囲気がなければ、単なる暗い話になってしまう。そういった意味で、場所の設定が絶妙であったなと思う。

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高知県立追手前高校


国道56号線 (白地図著作権:「白い地図工房」)

 


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