1995年8月忘日、私は大阪市天王寺区恵美須東にいた。通称、新世界である。
家を出てから、国道１号線、23号線、25号線の順に走ってきた。とくに目的地は決まっていないのだが、走っているうちに、いつのまにか大阪まで来てしまった。
私は、小学校５年生から、高校卒業まで、大阪で暮らした。思春期から青春期という、人生のゴールデンタイムを、この街ですごしたことは、私の人格形成に、それなりの影響をあたえている。しかしながら、大阪を離れて20年も経過すると、その記憶は、次第に過去のものになってきている。それで、自分の原点を確かめるために、私は時々、こうして大阪に来ることにしている。
せっかく大阪に来たのだから、やはり大阪らしいところにいきたい。キタ（キにアクセントがある）の梅田界隈は、もはや東京となんら変わるところはない。大阪らしいといえば、やはりミナミ（最初のミにアクセントがある）だろう。しかも、大阪のシンボル、通天閣の下あたりがいい。このあたり新世界界隈は、大阪で、もっとも大阪らしいところであると思う。
でっかいフグのかたちをした看板がある。さらに、「ふぐなら日本一」と書いてある。わかりやすい。
大阪の人間で、この店を知らない人はいないだろう。東京でふぐというと、ヒレ酒を飲みながら、ふぐ刺し、ふぐちり、ふぐ雑炊などというコースで、かるく２万円はする。はっきり言って、私は東京ではふぐなど食べたことはない。
ところが大阪では、わりと大衆的な値段で食べることができるのだ。てっさ（ふぐ刺し）、てっちり（ふぐちり）が、だいたい3〜4,000円くらいだ。大阪はふぐの消費量が日本一であるという。
もちろん、安かろう、悪かろうではない。安くてもまずければ、大阪では絶対に生き残れない。そもそも、ふぐでも鮎でも、あるいは昆布でも、なんだってそうだが、最高級の食材はすべて大阪に来る。なぜならば、需要があるからだ。さすがに食い倒れの街である。
一般的に、東京では安くて美味しい店が少ない。もちろんあることはあるのだが、確率としては、大阪にくらべると格段に少ない。大阪では、安くて美味しい店が多いだけでなく、どんなに安い店であっても、そこそこのレベルは維持されている。理由は、まずければ客が文句を言うからだと思う。
通天閣の方に歩いていくと、いつのまにか、後ろから近寄ってきたおっさんに、声をかけられた。
おっさん「にいちゃん、免許持ってるか。」
私 「は？」
おっさん「１日１万（円）。トラックの運転や。どや？」
私 「．．．。」
こういうの、なんといったっけ。ポン引きじゃなくて、口入れ屋じゃなくて．．．、そうだ、手配師だ。
そういえば、道を歩いていて、仕事の話を持ちかけられたのは、ずいぶんと久しぶりである。もう、20年以上前であるが、私は上野駅でジャンパーを着たおっさんに、
「にいちゃん、自衛隊入らないか。にいちゃんやったら、ええ体格（からだ）してるから、戦闘機に乗れるかもしれへんで。」
と、誘われたことがある。私は、当時、自衛隊に配備が決まったばかりの、マクドネルダグラスＦ１５イーグルに乗れるのなら、それも悪くないな、と思ったが、それだけの理由で大学を中退するというのもどうかなあ、と思って、断ってしまった。
※ちなみに、マクドネルダグラス社は、1996年にボーイング社に買収された。グラマンもノースロップに買収されているし、米国の戦闘機メーカーも、かなり整理されてきた感じがする。
それからも何度か上野駅に行ったが、自衛隊への入隊を勧誘するおっさんは、みかけなくなってしまった。あのとき、あのおっさんについて行ったら、いまごろ私はパイロットになっていたかもしれないのだ。
まあ、そういった栄光のエリートコースへの勧誘にしては、あのおっさんは、限りなく、うさん臭かったけれど。
とにかく、私は、道を歩いていて、仕事への勧誘を受けたというのは、それ以来である。せっかくのお誘いではあるが、私はすでに「にいちゃん」などと呼ばれる年齢ではないことと、休暇をとって旅行中であることを説明し、辞退した。おっさんは、
おっさん「なんや。ええ年齢して、バイクなんかに乗って遊んどって。ロクなもんちゃうで。」
私 「．．．。」
おっさん「しっかり働きや。いまやったら、まだ間に合うで。」
とか言って、行ってしまった。
さすがに大阪だ。相手の事情などおかまいなしに、自分の主観による評価を、がんがん言ってくる。
しっかり働きや、いまやったら、まだ間に合うで、か。当たっていないこともないような気がする。はたから見ると、そういうふうに見えるのかな、などと思いながら、オートバイを置いてあるところまで、歩いて戻った。
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