国道362号線   −その2−


 私は、鉄道が好きである。つまり鉄道おたく、通称、鉄っちゃんである。
 鉄道が好きで、旅が好きな者にとって、大井川鉄道のある大井川流域は、天国のようなところである。大井川鉄道の本線には、蒸気機関車や、いろいろな旧型車両が走っているうえ、ミニ列車と呼ばれる井川線には、日本で唯一のアプト式が採用された区間がある。沿線の風景はすこぶるいいし、さらには、いい温泉まである。
 そういうわけで、大井川鉄道沿線は、私にとって、じつに頻繁に訪れる場所となっている。調べてみると、過去10年間のあいだに20回以上、来ている。ここに来るのは、だいたい5月か11月だ。大井川鉄道沿線の新緑と紅葉は、とてもきれいだからだ。

 人はなぜ、鉄っちゃんになるのか。
 私の場合は、子供のころから、地図を見るのが好きであった。地図を見て、その場所に行ってみたいと思ったとき、まだ子供でクルマの運転ができない私にとっては、鉄道を使ってしか、行ける可能性はなかった。それで、地図上のある場所に行くことを想定して、時刻表で列車を探すといったことを、よくやっていた。そういったことから、私は地図だけでなく、時刻表の見方にもずいぶんと詳しくなった。
 中学生くらいになると、時刻表で見ているだけでなく、実際に乗りに行くようになった。そういったことから、私は鉄っちゃんになったわけである。
 こういうことは、その人が育った環境によっても、ずいぶんと違うと思う。私の子供たちは、生まれたときから家にクルマがあったから、鉄道になど、まったく興味を示さない。

 それはともかく、最初の頃、私はここに来るのに、国道1号線で金谷(かなや)まで行って、そこから国道472号線を大井川沿いに遡っていた。けれども、大井川鉄道沿線のハイライトは、千頭から井川までの軽便鉄道区間と、千頭から家山あたりまでの区間であるので、金谷まで行ってしまうと遠回りになってしまう。それで、このごろは、静岡から国道362号線で千頭まで来て、井川まで行くか、家山まで行くか、その日の気分で決めるようにしている。

 今日は、どっちに行こうか。まだ時間が早いので、私はとりあえず、井川まで往復してくることにした。

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大井川鉄道


 千頭から井川までは、静岡県道77号線を走る。ミニ列車が、ずっと並行して走っている。ミニ列車の区間は、たった25キロメートルのあいだを約2時間もかかるうえ、井川まで行く列車は1日4往復しかない。井川からは、静岡鉄道のバスが新静岡までのあいだを、約2時間20分で結んでいる。だから、公共交通機関としての存在価値は少ない。もっぱら観光用であるとみられる。

 桑野山トンネル(くわのやまとんねる)という長いトンネルを抜ける。このトンネルは、この先にある長島ダムの工事のために、開通させたものである。そもそも、大井川鉄道の千頭〜井川間も、井川ダムの工事のために開通させたものだ。要するに、すべてはダムのためにつくられた施設なのである。
 このあたりの大井川は、山峡でありながら、ものすごい蛇行をしており、Sの字というよりはΩ(オメガ)という字の連続のようだ。川の水は、独特の色をしている。普通の川の色がリバーグリーンだとしたら、大井川の色はターコイズグリーンのような感じだ。これは硫酸銅が含まれているからということである。ずっと前に、大井川鉄道のSL列車に乗ったとき、車掌がそんな説明をしていた。日本国内で銅山というと、足尾とか別子が有名であるが、このあたりにも、小規模ながら銅の鉱床があるのかもしれない。

 アプトいちしろ駅と長島ダム駅のあいだは、アプト式区間である。アプト式とはラック式鉄道の一種で、レールと車輪の摩擦だけで登りきれない急勾配区間において、レールのあいだに取り付けたラックギアと、機関車に取り付けたピニオンギアをかみ合わせることにより、登っていくものだ。かつては信越本線の横川と軽井沢のあいだに使われていたが、現在では、日本でここだけとなっている。
 なお、日本の鉄道で採用されたラック式鉄道はすべてアプト式だったため、ラック式鉄道=アプト式と誤解されがちであるけれど、ラック式鉄道には、リッゲンバッハ式、ロッハー式など、他にもいくつかの種類がある。

 アプトいちしろ駅と長島ダム駅のあいだは、90‰(パーミル)という急勾配である。これは、ケーブルカーなどを除くと、鉄道としては日本一の急勾配だ。パーミルというのは1000分率のことであり、90‰というのはつまり、1000メートル進むと90メートル登るという勾配である。
 大井川鉄道のアプト式区間では、いちばん千頭寄り、つまり坂の下側に赤い電気機関車が連結され、列車を押し上げる方式となっている。押し上げるのであれば、万一、連結が外れても、客車が暴走することはなくなるからだ。機関車は、なんだか異様に長い顔をしている。

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井川線とアプト式鉄道の紹介


 アプト式の区間をすぎると、列車はもとどおり、ディーゼル機関車が牽引するようになる。
 ちょうどいま、新緑が芽吹いた時期である。透明な水の流れる沢と新緑の組み合わせは、写真を撮るには最高だ。新緑だけでなく、紅葉もすばらしい。また、小さな集落の日常的な風景のなかにも、新しい美の発見があったりする。写真を撮る目で旅をしていると、日本は美しい国だなと、しばしば思う。
 
 奥大井湖上(おくおおいこじょう)という駅がある。湖のなかにぽつんと島があって、そこに両方の岸から鉄橋がのびてきている。そして、駅はその小島にあるのだ。まさしく湖上である。けれど、どうやって利用するというのか。
 じつは、片方の鉄橋には、歩道が付けてあって、列車を利用する人は、その歩道を渡って駅に行くのだ。けれども、周囲は山のなかであり、駅を利用する人がいるとは思えない。だからこれは、観光を目的に乗ってくる客に対するサービスなのだと思う。

 接阻峡温泉(せっそきょうおんせん)駅は、もともとの駅名を川根長島といった。ここだけでなく、川根市代がアプトいちしろに、川根唐沢が平田(ひらんだ)に、犬間が奥大井湖上に、あるときまとめて駅名が変わった。新しくレールを付け替えたためであるが、接阻峡温泉だけは、もとの川根長島駅があった位置と変わっていないから、観光客のために駅名を変えたのであろう。

 尾盛(おもり)という駅は、人家がまったくないうえ、地図を見ても、クルマが入れる道はおろか、歩道も一切ない。そんなところに、土をちょっとだけ盛り上げたようなホームがある。いったい、なんのためにつくった駅なのだろう、と思う。道がないのだから、オートバイはおろか、徒歩でも行くことは出来ない。不思議な駅である。

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尾盛駅の紹介

  「秘境駅に行こう」 うっしーさんのホームページ

著書の紹介   小学館文庫 「秘境駅へ行こう」 「もっと秘境駅へ行こう」


 尾盛駅の地図をみる



 閑蔵(かんぞう)駅から先は、道は狭くなり、見通しのきかないカーブが連続するようになる。こういうところでは、ラインを読むよりも先にカーブミラーを見て、対向車があるかどうかを確認しながら進むようにしなければならない。注意深く狭い道を進み、終点の井川駅に到着した。

 井川は、深い山のなかにあるわずかな平地に、集落がかたまっているという感じのところである。井川ダムと中部電力の発電所があり、最大出力は6万2000キロワット。これほど大規模な自然破壊を行っても、たった6万2000キロワットなのか、と思ってしまう。これが原子力発電所だと、東京電力の柏崎刈羽原子力発電所の出力は821.2万キロワット、四国電力の伊方発電所の出力は202万キロワット。まさしくケタちがいである。

 私は、原子力発電建設に対して、無条件に賛成するわけではない。けれども、刻一刻と地球温暖化が進行していくなかで、原子力発電が人類を救う鍵を握っているのは、疑いようがないと思う。
 問題は、現在の国際社会、あるいは技術水準が、一歩間違えば破滅に結びついてしまう“神の火”を扱うのに、十分な成熟度を持っているかどうかである。それについては、答えはおそらくノーだろう。
 けれども、だからといって、国際社会と技術が十分な成熟度に達するまで待つことができるかというと、それは不可能であると思われる。地球温暖化は着々と進行しているし、化石燃料というものは、いつかは枯渇する性格のものであるからだ。
 本当に、私たちはいったい、どうしたらいいのだろうかと思う。

 地球温暖化の進行を少しでも抑えるためには、何の用もないのに、オートバイで化石燃料を消費して、遠くまで移動するような行為は、厳に慎むべきであると思う。が、それはともかく。
 井川は遊びに来るには、とてもいいところだ。近くには、スキー場もある。井川湖には、2トンまでの自動車が通行可能な吊り橋がある。また、井川雨畑林道(いかわあまはたりんどう)を越えて、南アルプス方面に抜けることも可能である。
 この日は、さらに奥に行く気にはなれず、私は井川駅で缶コーヒーを一本飲んでから、そのまま千頭に引き返した。


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