国道121号線   −その2−


 日光に行くには、いろんなルートが考えられる。オーソドックスなのは、東北自動車道で宇都宮インターチェンジまで行って、そこから日光宇都宮道路に入ることだろう。ちょっと遠回りだけれど、関越自動車道で沼田まで行って、金精峠を越えて入るという手もある。それに、最近では渡良瀬川沿いに足尾町まで北上して、日足トンネル(にっそくトンネル、2,765メートル)を抜けるルートもある。
 この日、私が国道4号線経由のルートを選んだのは、とくに大きな理由はない。が、午後3時ごろの待ち合わせだから、高速道路を使って急いで行く必要がないのと、首都圏を抜けるのに、生活道路とごちゃまぜになった3桁台の国道を走ると疲れるから、幹線国道である4号線を選んだまでである。

 国道4号線は、いつもは時速60キロメートル以上のスピードで流れているのだが、この日は混んでいて流れが悪かった。夏休み最後の休日だから、出かけるクルマが多かったのかもしれない。宇都宮の手前から、国道121号線に入った。
 鹿沼市(かぬまし)というところを通る。DIY店などで、「鹿沼土」という商品を売っているのをみかけるが、このあたりで採れる土である。私は園芸に詳しくないので、どういった植物に使うのかはよくわからないが、とにかく、そういう土が売られている。
 鹿沼市から今市市を通って、日光に至るまでの国道121号線は、「例幣使街道(れいへいしかいどう)」と呼ばれている。ところで、例幣使ってなんだろう。例幣使街道と聞くたびに、疑問に思っていたのだが、ついつい今日まで、調べずにそのままにしているのであった。私の場合、こういうことは日常生活のなかで、たくさんある。帰ったら、今度こそ調べてみようと思う。

注:例幣使
 正保3年(1646年)、徳川家康を祀る日光東照宮の神前に「幣帛(へいはく=神に供える細かく切った紙を串にはさんだもの。金で作られていた。)」を奉呈することが決定され、翌年、第1回の日光例幣使が派遣された。幕府は例幣使専用の街道として、中山道の倉賀野宿で分かれてから玉村、五料を経て利根川を渡り、芝、木崎、太田を経由して、楡木(にれぎ)で壬生(みぶ)道へ、今市で日光道中に入る、日光例幣使街道を整備した。例幣使は、毎年4月1日に京都を出発し、15日に日光に到着した。日光例幣使は、慶応3年(1867年)まで221回、毎年欠かさずに遣わされた。身分の低い公家が例幣使であったことから、道々金品を強要したり、籠をゆすって落ち金銭を要求したという。このことから金品を要求することを「ゆする」と言うようになったとされている。


リンク
例幣使街道に関する紹介  (平田ファミリーホームページ
 群馬県在住の方で、地元である上州のことを紹介しておられます。「上州の街道」は写真入りで旧街道を紹介されておられ、とても参考になります。

鹿沼市公式ページ
今市市公式ページ




国道121号線の杉並木

 今市市(いまいちし)の手前で、杉並木のなかを走る。ここの杉並木は、本当に見事だ。徳川家康の没後、整備されたものだから、樹齢は400年近いだろう。見上げると、高さ40メートルもあろうかと思われる老杉が、ずっとそびえ立っている。日光の杉並木は、世界一長い並木道として、ギネスブックにも載っている。

 今市から、国道120号線に入る。すぐに東武日光駅に着いた。日光駅は、東武鉄道の東武日光駅とJRの日光駅が、ほぼ隣接している。修学旅行の専用列車が着くのはJR日光駅で、ロマンスカーが着くのは東武日光駅である。
 いまでは、ほとんどの観光客は、東武日光駅を利用しているに違いない。JRも上野や新宿あたりから快速列車を走らせれば、それなりに需要はあるのではないかと思うのだが、東武に対して、完全にギブアップ状態になっている。

 駅前から、携帯電話を使って、みんなにメールを出した。現地集合といっても、道中、携帯電話でメールをやりとりして、いまどこにいるかを知らせることになっている。それでどうしようというのではないのだが、
「あいつは、いま、あんなところにいるのか。」
と想像するのが、面白いのである。
 すぐに返信があった。「いま、そこから100メートルほど離れたスーパーマーケットで食糧を調達しているから、来てくれ。」とのことであった。
 言われるままに行ってみると、リオンドールというスーパーマーケットがあり、ちょうど大量の肉、野菜と酒を買い終わったところであった。クルマまで運ぶのを手伝う。積み終わると、
「キャンプ場まで、いっしょにつるんで走りましょうよ。」
ということになった。
 みんなのあとについて、いろは坂を登る。舗装の状態が、あまり良くない。観光バスががんがん走るから、すぐに路面が痛んでしまうのだろう。
 キャンプ場に着くと、別のルートで来た仲間が、すでに着いていた。
 全員そろった。男ばかり、5人の大人と、小学校1年生および幼稚園の年少の2人の男の子という7人である。

 丸太小屋ふうのバンガローを借りて、荷物を置くと、すぐに食事の支度にとりかかる。といっても、火をおこして、肉を焼くだけのことであるが。
 木炭が燃え上がると、子供たちが珍しそうに見ている。いまどきの子供は、日常生活のなかで、燃え上がる炎を見ることはない。焼肉とはいっても、家庭のなかでは、ホットプレートで調理することが、ほとんどだろう。人間は見たことがないことを想像することはできないから、屋外で火をおこして、食べ物を焼いて食べるという行為を見るのは、いい経験であることは間違いない。
 とはいえ、ではこういった経験が、具体的にどう活用されるかについては、定かではない。ジャングルに迷いこんで、サバイバルでもしなければならない状況になったら、こういった経験は生きるかもしれない。けれど、そういう状況におちいること自体、きわめて可能性は少ないし、またジャングルに迷いこんでしまったら、ふつうの人間は、まず生き残れない。これからの子供たちにとって、外で火をおこして食事をするという経験は、はたして必要なのだろうか。
 若いお父さんたちが、がんばって調理をしてくれるので、私はやることがなく、そんなことを考えながら、ぼーっとしていた。

 無事に食事が終わり、みんなで湖畔に出て花火をするという、子供たちにとっては楽しい時間をすごした。そして、いよいよバンガローのなかで寝ることになる。子供たちにとっては、自分の家以外のところで寝るというのは、かなり新鮮な体験である。まして、テントやバンガローのようなところでは、環境が違いすぎて、なかなか寝つけないだろう。
 案の定、幼稚園年少の子は、不安のあまり、泣き出してしまった。こういった、ひどい環境のなかでも寝ることができるくらい、たくましい男の子になることは、いいことだと思う。彼は、いい経験をしているに違いない。
 とはいえ、ではこういった経験が、具体的にどう活用されるかについては、やはり定かではない。キャンプ場やバンガローで寝ることができるようになれば、あまりお金を使わずに旅行をすることができる。でも、それだけのことである。そういうことをする若者自体、少なくなっているし、わずかなお金を出せばユースホステルに泊まることができるのだから、あまり意味がある経験とはいえない。
 このように考えると、アウトドア・ライフが好きなお父さんたちが、子供たちをフィールドに連れ出すことは、実効性という見地から見た場合、ほとんど意味がないとみることができる。
 でも、それでいいのだろうと思う。




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